Step of the History当社の歩み

1955年

創業昭和30年からの歴史

創業地は、北原白秋の生地で知られる福岡県柳川市。
関ヶ原の戦いで石田三成を捕らえる功を上げた田中吉政が、岡崎城から筑後国32万5千石の領主として柳河城へ入城し、柳河藩を立藩した城下町です。
田中家断絶後は立花宗茂が明治までが藩主となり、1697年に4代藩主立花鑑任が藩主別邸の「御花」を建設、現在でも立花家現当主によって経営されています、一般にも公開されており九州では観光地として有名です。
そんな城下町の中で昭和初期から小さな桶屋を営む松藤勝一(前:代表取締役社長 松藤司紀の祖父)は庶民が水場で使う桶を作り売る商いをしていました。
当時のお葬式で使う『棺』は、大きな桶だった事から、勝一は生活用桶の他に『桶棺』も作っていました。
その頃の柳川は葬儀店が無く、隣組と呼ばれるご近所同士が助け合い、村の焼き場を使い集落単位で葬儀を出すスタイルでした。
松藤勝一は桶棺の納品先で、そのまま葬儀を手伝う事が多い中『桶屋は他にあるが葬儀店が無い、棺を作りながら葬儀の仕事をしよう!』と昭和30年、桶屋から松藤葬儀店になりました。これが当社の始まりです。

  • 桶屋時代に売っていた松藤桶屋の桶
    桶屋時代に売っていた松藤桶屋の桶
    (現在も本店にて保管)
  • 手引き霊柩車を持つ松藤勝一
    手引き霊柩車を持つ松藤勝一
  • 昭和30年から続いてきた松藤葬儀店
    昭和30年から続いてきた松藤葬儀店

1977年

天光社本店建設

2代目となる松藤邦彦にて、昭和52年4月に有限会社天光社として設立、本店と倉庫を兼ねた「天光社 柳川本店」を建設し、大川市・大木町・瀬高町(現:みやま市)に支店を設立しました。

当時は、寺院もしくは自宅のどちらかで葬儀をする事が殆どで、大きなまな板看板に字書が大筆で故人様の名前を体いっぱい使って書いていました。
また、葬祭道具などはグレード別で使い分け、設営時にはトラック2~3台の荷物を積み込み力作業が多くありました。
なくなられた家々に合わせた会場作りは、幕張から始まり、祭壇土台設営から祭壇の花差しと、腕を競う職人的な気質の社員が求められる時代でした。
また、競合他社との違いを出す為、これまで白木道具主体の設営を沢山の生花で設営する方針を決めました、この方針は現在にも引き継がれています。

また、行政行事としては地元柳川市の戦没者追悼設営など地元柳川のご先祖追悼に携わってきました。

  • 当時の天光社 柳川本店
    当時の天光社 柳川本店
  • 沢山の生花を使う事で他社と差別化をはかった
    沢山の生花を使う事で他社と差別化をはかった
  • 出棺風景
    出棺風景

1993年~2000年

会館葬儀時代の平成

平成に入り、なにかと不便な自宅葬儀にたいして地域からは葬儀場建設を求められる中、葬儀会館1号店建築に着手いたしました。

柳川会館(現:三橋式場)を1号店として、平成5年~12年までに地元ホールをとして「瀬高式場」「蒲池式場」「宮永式場」「小保式場」計5ホールの建設をいたしました。

  • 「柳川会館」の地鎮祭
    「柳川会館」の地鎮祭
  • 平成5年4月にオープンした「柳川会館」
    平成5年4月にオープンした「柳川会館」

2004年

全国展開へ向けて

平成16年、初代 勝一から三代目となる松藤司紀が社長就任したのが36才の時。
イメージを含め業界的にグレー感がある葬祭業にたいして、葬祭職業の価値向上を目指し、明瞭化、葬儀施設の見直し、生きた顧客管理、社員レベルの向上に取り組みました。

先ず、葬祭業務をどう受け止めて、どう変えていくのか? これまでのあたり前からダメ出しをはじめ、何が出来るのか?を会議で話し合う事からスタート致しました。

出てきた課題は、専門知識が問われる担当者の個々のレベルの違いなど、サービスの均一化、質の向上が難しい事でした。
対策として、従業員レベルの統一化をおこなう為、全社員の業務マニュアルを作成。
現場ディレクターマニュアルにおいては76ページにも及び、きめ細かな現場指導に活かされました。

たいしてお客様からの評価が上がったのか?を確認する為、式後アンケートを開始、なかなか葬儀のアンケートには消極的な利用者にたいして、担当者のコミュニケーション力UPから、喪家からご意見と事例のお写真を頂く「ご葬儀アンケート&事例写真」をお客様から頂き、以後のサービス向上と、これから葬儀を考えられるご家族へ『真実からの安心感』をお届けできるようになりました。

そのアンケートや事前相談記録から『顧客が求める情報は何か?』を汲み取り、弁護士、書士の先生や当社スタッフによる無料セミナーを開始、これまで葬儀の司会しかマイクを持つ事が無かった社員が、セミナーの為、マイクを持ち、喋る練習を始めました。

  • 社長と全部署での合同改善会議の風景
    社長と全部署での合同改善会議の風景

また、ご喪家より『隣合わせのホールでも、別の葬儀してるのは気を遣うという意見から
1日1組貸切ホールの建築へ転換。
第1号として「大和式場」を貸切型で出店、改良を重ね試行錯誤からプロトタイプとなる「郷原式場」を生み出します。

  • 「貸切ホール1号」としてスタートした大和ホール(平成17年)
    「貸切ホール1号」としてスタートした大和ホール(平成17年)
  • プロトタイプ1号となった「1日1組貸切の郷原ホール」
    プロトタイプ1号となった「1日1組貸切の郷原ホール」
  • 敷地すべてが貸切スタイルとし、以後は天光社の基本スタイルになる
    敷地すべてが貸切スタイルとし、以後は天光社の基本スタイルになる

社員の意識改革

『顧客へのサービスは、人の体と一緒で、会社も健全健康な運営でなければサービス提供はできない』と経営者意識を持つ事を社員育成の軸に置き、収支のバランス、備品の仕入れや品質管理、社員管理など、社員意識を変えていきました。

2007年

本州1号店オープン

葬祭業ほど地域で文化が違う業種はないのでは?と思います。
当社が出発した福岡県南部地域では葬祭ホール事業者は数多く、人口1万人にたいして1ホール以上の割り当てで、自宅葬儀は殆ど見ないのが現状です。
それにたいして、今でも地域にホールが無く、自治会館や自宅で葬儀をされる地域も数多くあります。
この文化の差は、その地域ごとの葬儀社が創ってきたからです。

地域特性差が大きい事に気付き、施設やサービスが根付いていない地域は無いか? 我々の社員育成と管理力、施設企画力を社会貢献として提供できる場所は無いか? 平成19年から社員2名による現地調査を基本とした全国調査を開始致しました。

3年後の平成21年、本州1号店となる岐阜県の瑞穂市と北方町の中間位置する「瑞穂北方式場」をオープン。
プロトタイプの郷原ホールを更に改良した建築企画を考案致しました。
2ヶ月後に本巣市へ2号店目の「本巣式場」をオープン。ノウハウ提供の為、福岡から立上げ社員が1年前から引っ越しして、地元業者へのサービス伝授と、社員育成を進めました。

岐阜県地域初となる1日1組貸切ホール千の風オープニングイベントでは長い列が出来、開始早々400名の来場がありました。

この岐阜の出店で遠隔管理とシステム構築、商品のパッケージング化を実行致し、その後、本部機能を福岡県久留米市へ移転させ、本格的に関東、関西と広げていく事となります。

  • 本州1号店となった岐阜、瑞穂北方ホール
    本州1号店となった岐阜、瑞穂北方ホール
  • 岐阜式場出店会議にて使用した建築模型
    岐阜式場出店会議にて使用した建築模型
  • 生花業者各社とのライン祭壇勉強会
    生花業者各社とのライン祭壇勉強会
  • 生花業者各社とのライン祭壇勉強会
    生花業者各社とのライン祭壇勉強会

2011年

家族葬の到来

岐阜県出店から2年後の平成23年に兵庫県尼崎市に、翌24年に東京都青梅市へ其々1日1組貸切ホールをオープン、25年には大阪府池田市、26年には東京都八王子市へと関東関西のサービスエリアを広げました。
大阪や東京での葬儀運営と、変わらないアンケートやイベントセミナーを行う中で市場に変化が出てきました。
外部の方を呼ばない「葬儀は、親しい者だけで執り行いたい」という顧客心理の変化です。
当社にとっても影響が大きく、葬祭サービスをどう価値を付け、どう提供していくのか?考えさせられました。

変化が大きかったのは、外部の方に見せる必要が無くなった祭壇は「大きさ」より「質」重視へ。
当然会葬者を呼ばない為、求められる施設の大きさは、どんどん小型になり、人的サービスでは、ホテルや旅館同様の「居心地とおもてなし」を求められるようになりました。

2012年

まるで自宅葬を目指して

家族葬が主流となった現在、背景には家族の不幸を地域ぐるみで行いたくない、という『これまでの違和感』と 家族の死去の時に外部の方に気を使いたくない という『気疲れや煩わしさ』です。
現代の喪主世代の考え方の象徴であると考えます。
そのような葬儀ニーズの変化に、平成24年、当社は施設のコンセプトを根本的にやり直し『葬儀が出来る環境』から『葬儀をしたい心境』になれる施設作りを創造し練り直します。

翌、平成25年、兵庫県伊丹市に『家族葬専用 葬祭ホール千の風伊丹』(現:自由な家族葬 糸 伊丹大鹿ホール)が完成します。

  • 新コンセプトの建築パース案
    新コンセプトの建築パース案
  • 新コンセプトの建築パース案
    新コンセプトの建築パース案
  • 葬祭ホール千の風伊丹
    葬祭ホール千の風伊丹
  • 大阪北摂初となる1日1組貸切ホールのオープンは市民の関心も高く、オープニングイベントでは、小さな家族葬ホールに来場者は500名を超えました
    大阪北摂初となる1日1組貸切ホールのオープンは市民の関心も高く、オープニングイベントでは、小さな家族葬ホールに来場者は500名を超えました
  • 自由な家族葬 糸 伊丹大鹿ホール
    2021年7月31日に「家族葬 千の風」 伊丹大鹿ホールは「自由な家族葬 糸」伊丹大鹿ホールにブランド名を変更し、外観・内装共に一新いたしました。

2013年

リビングホール展開

2013年から展開してきた小型家族葬スキームでの「千の風ホール展開」は大阪、兵庫、東京へと広がりました。地元認知も深まり高評価を頂いており、現在では当社がご用意した会員制度に毎月多くの方がご入会して頂いております。

施行後アンケートには、ご親戚の方より「私の町にも千の風があれば・・」とコメントを頂く事も多く、ご要望が多かった市区町へのホール建設を出来るだけ致してまいりました。

  • お客様の声アンケート
    お客様の声アンケート

出来るだけご要望にお応えした式場建設を心がけ、建設計画を考え、どんな建物が良いのか
どの場所が利便性は良いのか、開発部署とエリア事業部責任者とで協議を致します。

十分な協議を重ね平成21年から現在までに東京4ホール、関西26ホール、岐阜7ホールの合計37ホールを本州に展開、九州の14ホールを加え現在51ホールで展開中です。

■全国に広がる千の風ホール

  • 千の風ホール 1
  • 千の風ホール 2
  • 千の風ホール 3

■一つ一つを「どうしたい」から決めていった式場と室内

  • 式場と室内 1
  • 式場と室内 2
  • 式場と室内 3
  • 式場と室内 4
  • 式場と室内 5
  • 式場と室内 6

■生活でお役に立てれる終活情報セミナーを各地で毎月開催しています

講師は弁護士、司法書士、行政書士、介護士、各寺院様、ファイナンシャルプランナー、墓石お墓講師、社員。
その他、落語や健康体操、餅つき、歌声喫茶、野菜やラーメン詰め放題、抽選会、感謝祭、旅行など。

  • 終活情報セミナー 1
  • 終活情報セミナー 2
  • 終活情報セミナー 5
  • 終活情報セミナー 6

ご遺族を自分の家族と思って

ご家族を自分の家族と思うと心が入ります。
例えばお誕生日月にお亡くなりになった故人様へ、そっとケーキを供えたり、行きつけの焼き鳥店の大将にお願いしてお供え出来たり、思いが形になります。
好きな音楽や、蘭の花が好きだったり、好きな色や香りがあったり「故人様らしさを感じ取れないディレクターは本物では無い」私たちは見落としてはいけない、見えない大切な何かを理解出来ています。

だからこそ、1日1組に拘り、日頃経験をしない忙しい2日間を気兼ねなく故人様を想い、無事に葬儀を終えて頂けるよう考えています。

現在

最後に

世代交代に伴い、お葬式のスタイルも自宅葬から寺院、集会場葬を経て専門の葬儀場と移り、現代では家族葬や直送、火葬式など葬儀を必要としないニーズも生まれてまいりました。
また、葬儀を行う環境は、各地の葬儀社次第と言っても過言ではありません。
当社は、これまでの古き葬儀文化を重んじ、これからの新しい葬祭文化を創造し、時代のニーズに合わせた「情報」と「葬祭サービス」を、質の高い内容で提供し続けます。
仏事や葬儀については当社を、地域の皆様に心強く感じて頂けるよう日々努力を致します。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。